昭和48年09月14日 朝の御理解



 御理解 第54節
 「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」

 御神徳を受ければ心配はないと言う事は、どう言う事であろうか、又どう言う信心をさせて頂いたら、心配のない世界に住むことができるであろうか、心配がない事はないでしょうけれども、ギリギリのところになったら胆が据わる、そこから安心が得られる、又神様を信じる力が出来てそして神様からも信じられる、私どもになったときに心配はない、不安はないと言うことになると思います。
 神様を信心とは信ずる心と書いてあるように、神様を信ずる稽古、だから信心を分かると言う事は、理論上でもわからなければいけないけれども、それと相候って体験をもってするという事が一番尊い。例えばその体験を積み上げてゆくと言う事、あの時はああいう難儀な問題をあの様におかげを頂いたと、だからこれから先どのような事があっても、信心を頂いておる限り、安心だと言うものがおぼろげに頂ける、ですけれどもこれはもうその時その時がもう新たなものでですね、それはやっぱり朧気なんです。
 これはやっぱりそのときに直面すると、不安もあれば心配もある、それをまた繰り返して行く内に、間違いのないと言う様な心がうまれてくるのでけれども、それでもやっぱり心配のないと言う事はない。あの時にああ言う信心でああ言うおかげを受けたから、と言うても例えば又次ぎの問題の時に、同じ信心でおかげを受けるとは決まってないからである。それでも不安がある、
 信じておる間違いはないと言うてもやはり不安がある、そこで私は新たに思わしてもらうのに、心配はないと言う程しの徳を受けるための日常の稽古の焦点とでも申しましょうか これは馬鹿と阿呆になる稽古を本気でする事ではないかと思うですね。こげな事があなた心配ならんですか貴方は馬鹿じゃなかですかと、言われるのがそれなのです、皆がこげん心配しとるのに、あなたはほけのごとして貴方は阿呆じゃないですかと、言われるようなおかげ頂くことだと思うです。
 私共がいろいろ教学の面でも、神様を信じん訳にはいけない程しに、言うなら頭の上でわかる、それを体験の上でそれを表して行きまた、身に受けて行く、だから神様を信じる力はだんだん出来てくる、けれども信ずる力がどんなに強くなってもです、なら又新たな問題に問題に直面する時です、なら心配はないかと言うとやはり心配である。あの時にああ言う信心を頂いたから、この次ぎも大丈夫だと言う様な考え方の中には必ず、それでも万一の事と言ったような不安がある。
 漂うわけです、又事実そうです、あの時にああ言う信心でおかげ受けたからと言うて、この次ぎも同じ信心でおかげ受けられるとは決まってないからです、ですからおかげをどんなに受けても、なら教学的に信心が分かっても、やはり心配はないと言う程しの事にはなれないように思うです。それに教学でありそれに体験であり、それにと言うのは馬鹿と阿呆になる稽古を本気でさして貰う、それに教学であり又は体験である、そこのところが、たろうて行かなければならない、信心は。
 馬鹿と阿呆になると言う事はですね、ならもう本当にいま私が申しますように、あんた馬鹿じゃないか、阿呆じゃないかと言われる位に、言うならばそう言う人達から見たならばもうこんなたいへん事をのほほーんとしてと見えるかも知れません、こんな問題の時にのんきにかまえといて良いですかと、言われるかもしれません、けれども私はね、馬鹿と阿呆と言うことは、そう言うおかげが受けられると思うですね。
 そこでなら日々信心の稽古をさして頂くと言う事は、まあ極言すると馬鹿と阿呆になる稽古をする事じゃないでしょうか、いわゆる左巻きになる稽古です。それでいて神様と言う事に対してだけはもう異常なまでの、熱意をもたなければならない、異常なまでと言う事はこれは異常と言うよりも、神様へ向かうと言うのは、熱心と言うけれども段々分かりだしたら熱心とか異常とか、それがもう当たり前になってくるのですよね。
 例えば私達の信心を場合には異常だと言う人がいるかも知れません、ああ大坪さんは熱心と言われた時代も御座いますけれど、それは自分にとっては当然のことでしたですし、当たり前の事でしたもんね、いわゆる左巻きの言わば蚊取線香に火がついとるようなもんです、馬鹿のごとしとるけれども一寸触れると熱いと言うものを感ずる位の、ものがなからねばいけません、あの人は阿呆のごとしちゃるばってん言うなら、いよいよの時にはその真価を発揮出来るようなものでなければいけない。
 普通で言うさら馬鹿とは違う、「真心」信心で馬鹿と阿呆になれと言う事です、福岡の初代に二代金光様が御教え下さってあるように、福岡と言うところは中々学識の多いところ、学者の多いところ、私のような無学なものが、福岡の街に出まして、そう言うお取り次ぎが出来るだろうかと、言う心配をお届けされた時に「馬鹿と阿呆で道を拓け」とおっしゃった。素晴らしい事だと思います。ですからこれはもう馬鹿じゃないものが、馬鹿と阿呆で道を拓くのですから。
 馬鹿と阿呆になる稽古を、いよいよしなければならない、と言う事になるのです、そこでなら、馬鹿と阿呆と言う稽古と言う事が、ですもう私が一人辛抱しときやよか、私が一人馬鹿になっときゃよかと、言うものじゃないですね、いろんな問題の時にです、馬鹿にされる私が一人ぐうぐう言うて、辛抱しときゃよかと言う事ではない、それが有り難い有り難いで消化されていかなければならないと思うです。そこで馬鹿と阿呆と言う事はどう言う事かと言うと。
 昨日十三日会で秋永先生がいうてましたですね、陰に陽にそれぞれの信心性格があるけれども、陰にと言うのは、もう私のようにつまらんと言うた様な意味で、いつも何かこう蔭にこもったような信心をする人がある、私共の場合はそれは陽の方で行くと言うて自分の信心を言ってました、もうとにかくどう言う事があっても問題はそれを有難く受けていく以外にはない、とこういうとります。
 これは今日の話しから外れとりますけれども、二三日前でしたか、自力と他力と言う事について頂きましたが、何もかにもとにかく有難い有難いで受けてゆく事だと、そこで私がここ二三日、三四日申しておりますように、私のようにつまらん者、私の様な者がこんなものを頂いてよかろうかと、一切のものが贅沢に見える、と言うお話をしましたね 朝の食事の時にそれは味噌のお汁に、一寸した野菜のまあ二三点、それにお漬け物がある、もうこんな贅沢なものをいただいて、よかろうかとこれはもう実感です。
 高橋さんにいわせると、これは贅沢な食べ物じゃないですよ、親先生にとってはこれはまあ言うならこれは粗食です、贅沢じゃないですよと脇から見れば言われますけれど、私にとっては贅沢に見える。だから私は勿体ないと言うことであり、私の信心の内容はだから勿体ないと言う事になってくるんだと言う風に、聞いて頂きましたですね。ですからその勿体ないという心で、一切をうけていくと言うのですから、有難いでうけていくのも、勿体ないで受けていくのも同じだ。
 してみると自力と他力と言うけれども、根本のところは一つになるんだと言う様な、お話をさせて頂きましたですね昨日、これは十三日会のとき。ですからここのところがやっぱり相候って、そう言う信心させて頂く稽古をさして頂くと言う事が目小もう行くならやはり、どうも只おかげおかげで行く勿論この道は有難いで拓けた道だから、有難いことには苦労はさせんとおっしゃるのだから、有難い有難いで受けて行く事ですけれども、なら勿体ない勿体ないで受けて行くことも、同じなのです。
その勿体ないと言うためには、まずは自分自身がわからなければ、勿体ないと言う事になってこない、もうこの位なものは当たり前になって来る。それを当たり前と言うところには、勿体ないが生まれませんから、これを本当に分に過ぎたものと頂いて勿体ない、それがどんな場合にあっても、それは例えば私どもが食べるに食がないと言う時代があった、もう年寄り子供だけでも良い、よいものとは言わんお粥さんが腹いっぱい食べさせられれば、それでよい、言う事はないと言うところを通っておるから。
 やはりそう言う事になって来るのじゃないでしょうかね。だからさまざまなところを通ると言うことは、本当に尊い事です言うなら馬鹿と阿呆と言う事は、そう言う有難いとか勿体ないとか言う答えが出るような、いうならけいこ、この問題に有難いと言う答えをだすためには、どう言う風に頂いたら良いだろうか、この問題を勿体ないと言う頂き方で、頂く答えをだすためには、どう言う計算をしたら勿体ないと言う答えが出で来るだろうかと言う事を考えなければ、ならんことになりますね。
 有難い勿体ないもない只腹が立つばっかり、只情けないばっかりと言うときにはもう全然、信心の計算を間違えておるとき馬鹿と阿呆になる稽古をしていないとき、そう言う私はたえず、信心の稽古をさして頂くというところからです、いわゆる蚊取線香がもえ続けておる限りです、煩わしいものは言わばもう自分のここに来る前に落ちてしまう程しの、おかげが頂けて来る事になるのです。もう煩わしい問題は起きて来ないです、第一にそこにです私は安住しておられると言うか、そこに本当の安住の地と言うか、言わば心配ないと言う大安心の大御かげが頂けると思うですね。
   どうぞ。